東日本フェリーで三厩から福島

2025-01-26

リコーオートハーフ 鞍掛峠 岡本おさみ 御岳林道 三厩 三福航路 浄土平 星空への招待 太平洋フェリー 東日本フェリー 落陽 龍飛崎

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 1979年夏の自転車旅程メモ

大阪箕面発
醒ヶ井駅[泊]
乙女渓谷バス停[泊]


舞台峠で早稲田のサイクリング部員と遭遇。目指す峠が同じ鞍掛峠ということで同行することに。しかし、体育会系の猛者と天文同好会のひ弱な筆者のペースが合うはずもなく、早々に先へ行ってもらう。

御厩野林道

鞍掛峠は近い


鞍掛峠は風が吹き抜ける気持ちの良い場所だった。
Honda XL250で旅するにーちゃん、山仕事の人、早稲田猛者君としばし歓談

御岳林道には森林鉄道の痕跡があった。

 

御岳林道営林署作業小屋[泊](上の画像とは別の小屋)

猛者君パンク修理中

三浦貯水池

御岳林道の起点を抜ける。この少し前、急カーブで突然遭遇した軽トラとぶつかりそうになり転倒、手のひら血だらけ状態に。以後自転車に乗る際は革手袋を着用することにする。
人里に降り猛者君と食堂で飯を食って別れた。


奈良井駅[泊]

待合で寛いでいると駅員さんに追い出されたので外のベンチで寝た。


経ヶ岳林道
権兵衛峠

芝平峠
入笠山 雷のため林道の道端でテント[泊]

八ヶ岳の裾を見ながら下界に下る

甲府
笹子トンネル


四方津駅[泊]
大垂水峠
横田基地
猪苗代
磐梯吾妻スカイライン上りの途中で気絶歩道で[泊]

暗いうちに目が醒めたがあたりを見回しても自転車がない。???歩いてしばらく下ったところにあるガソリンスタンドに自転車が立てかけてあるのを発見。よほど浄土平に早く着きたかったのだろうか、睡魔と戦いながら夢遊病者のように歩いて歩道をのぼったものと思われるが自転車を置いていってどうする?

7/30(月)~8/1(水) 浄土平にて「星空への招待」[2泊]


車に登って記念撮影する藤井旭さん


水沢緯度観測所

田沢湖
八幡平手前の道端でテント[泊]
十和田湖


龍飛岬レストハウスの軒下[泊]

青函トンネル工事中


8/7 三厩港

当時の地図には三厩から福島町まで津軽海峡を距離38km、2時間で結ぶ航路が記されていた。(大間ー戸井の方が23kmほどで航路としては短いが下北半島はやはり陸路が遠い。)前年岡山から自転車で龍飛崎まで来た際、20km先の北海道が肉眼でもよく見えていて次は必ずこの航路で北海道に渡ろうと思っていた。当時津軽半島西岸は小泊から七ツ滝の先までしか道がなく、少し山に入ったところで自転車を放置、徒歩で算用師峠を越えそのまま岬まで行き灯台手前のトーチカで寝た。1979年は自転車で岬まで来たので近くに吉田松陰の詩碑があるレストハウスの下で雨露をしのいでシュラフカバーで寝た。後年ニューサイクリング誌の読者ならおなじみの著者綿貫益弘氏の随筆「津軽から江差へ」に小泊から西岸ルートで龍飛崎を目指した話を見つけて度肝を抜かれた。シーカヤックならわかるが自転車連れで行ける地形ではないよな。

翌朝は午前9時発のフェリーに乗るつもりで出発したが三厩に着いたのは9時をわずかに過ぎた頃で防波堤から出ていく船を見送ることになった。まぁ急ぐ旅でもないし次の14時発を待ってのんびり過ごすうち雨になり雷も鳴りだした。おそらく切符売り場だった建物と隣接する屋根の下が乗船待合場所になっていてこのときは自家用車が2台だけ、あと大阪から来た400ccバイクの兄ちゃん、そして北海道の離島に連泊しているけど「ねぷた」を見物したくて一旦青森に渡って楽しんだ後また北海道に戻るという東京の親子3人連れ(未だに交流が続いている)と知り合った。港のどの位置から船が離岸したのかについては全く記憶がない。

この航路は発着場所の名前を取って三福航路と呼ばれていたらしい。旅客運賃は500円、自転車が400円だった。船の写真を撮っていなかったのが残念だ。船が着くなり船員さんから「乗ったらすぐ寝た方がいいよ、揺れるから」とのアドバイス。雷雨だし風も相当強かったのだろう、大いに揺れてゲロ吐きそうになったがなんとかこらえて福島町に上陸した。陸に降りても地面が揺れているように感じたのを覚えている。


三福航路は1998年8月31日をもって廃止された。この最終便に乗船された方のブログがある。Yahooブログで以前見つけてブックマークしていたもののサービス終了とともにリンク切れとなっていたが探してみると無事引っ越しをされたようで復活していた。
思い出の三福航路(その1)
思い出の三福航路(その2)

もうひとつ、有名なヨッキれん(平沼義之)氏によるサイト「山さ行がねが」の中に「ミニレポ第210回 三厩港 国道交点」を見つけた。今も残る東日本フェリー乗り場案内看板のきれいな画像もあってすばらしい。実は、2019/12/21(土)ロフトプラスワンWESTで行われたトークイベント「廃道の日3 -大阪- 新時代の廃道まつり」に参加してヨッキれん、トリさんと握手してもらったことがあったりする。


実際のフェリー乗降場所を探索し防舷材や繋留用ボラードについて述べられているサイトとしては
かつてフェリーのあった港を見に行く ③ 三厩港
https://aomori226.livedoor.blog/archives/52111749.html
忘れられた海上国道 #1 (三厩港)
https://tsukiyochakai.blog.fc2.com/blog-entry-1049.html

などがおすすめだ。他にも「青森県所蔵県史編さん資料」青森県史デジタルアーカイブスに航路開設に至る流れなどが記載されていて興味深い。

23_青森県史資料編近現代6

このアーカイブスを「三厩」で検索した中にフェリー「まつまえ」の写真が3点あった。キャプションに「三厩漁港と青森高船のフェリー」とあるが青森商船の間違いではないかと思われる。3点とも撮影日は1967年4月24日。場所は41.197258N 140.431038Eとあるので三厩漁港で間違いない。写真をクリックすると書誌的情報付きのオリジナルページが開く。




船側に「津軽海峡フェリー」とペイントされている。現存する津軽海峡フェリー(会社名も同じ)とは全く別物で買収される前の青森商船が使っていた名称だと思われる。現在の津軽海峡フェリー株式会社はWiki「津軽海峡フェリー」によると「吉野谷海運」「東日本フェリー」との共同出資で、1972年に東日本フェリーグループの「道南自動車フェリー」として創立とある。この記述だけでも航路の改廃や運行会社の改編が目まぐるしくて訳がわからなくなりそうだ。

上記資料224によると
青森商船   (本社・青森、野崎喜平社長)  三厩―福島間にフェリー航路権
道南海運   (本社・函館、井与三吉社長)  青森―室蘭間、青森―函館間に権利
東日本フェリー(本社、社長とも道南海運と同じ)大間―函館間に権利
があったが結局1967年4月に東日本フェリーが青森商船を買収したとのこと。上の写真はまさに買収の年に撮影されたものだ。資料224には井与三吉とあるがなぜか先頭の「蔦」が脱落している。社長名は蔦井與三吉が正しいはず。文字コードの関係でデータベース入力の際脱落したのかもしれない。

撮影年が不明だが「まつまえ」に乗船した際のカラー写真を乗せた貴重なブログを発見した。
三厩ー福島航路の船が「まつまえ」「つがる」「英鶴丸」と変遷したこと、英鶴丸は瀬戸内からの移籍で1シーズンだけの就航だったことなどが書かれている。
にはレインボーラインの時刻表画像を載せておられる。発行時期は不明だがデザインの感じから自分の持っている1979年6月版よりも少し古そうだ。

昭和46年(1971年)頃と昭和55年(1980年)の時刻表を載せている別の方のブログも発見した。


自分が持ち帰ってアルバムに貼っていた1979年の乗船券


三厩発は午前9時、午後2時の2便




現在の三厩漁港


黄色い丸印が当時のフェリー待合場所、青丸印が錆びた案内看板

地理院地図で確認すると1972-03-30発行の地形図は
https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1838977


1975-09-28撮影の空中写真もあった。インデックスの地図は現在の状況。



原版を1200dpiでスキャンした巨大な画像データを購入することもできるがリサンプルした400dpiまでは直ちに閲覧可能で拡大表示すると色々見えてくる。(無料の利用登録をすれば1200dpiのデータをPC上で閲覧できる。地形図についても細部まではっきり確認できる。ただし、その画面を撮影したりキャプチャしたりはご遠慮くださいとなっているのでここには載せない。)

岸壁に沿っている大きな赤い建物がフェリー待合、待機所の屋根だ。(最新の空中写真では白色)隣接する小さな白い建物が事務所、切符売り場、室内待合場所だったのではないかと思われる。記憶が定かではないので違っているかもしれないが...なにせフィルム時代、デジカメやスマホのようにパシャパシャ撮りまくることはできなかったのだ。今にして思えばもっとしっかり撮っておくべきだった。自転車も自分で運んだのか船員さんが載せてくれたのか、岸壁のどのあたりにフェリーが接岸したのかそのあたりの記憶が全然ない。天寧(2)さんのブログにある画像を見ると船尾に車が通る鉄板が写っているので船は岸壁に対して直角にバックで接岸したはずである。


1979-08-07 赤い屋根の下で撮影
フェリーの出港を待つ乗客たち。車は2台だけ。鉄骨の支柱の基礎となるコンクリートは当時子供でも登れる高さだった。カメラはリコーオートハーフ。



特徴的な鉄骨の柱を持つ待合場所。この日は雨で雷も鳴っていた。


GoogleStreetViewで確認できる2013年の状況:

道路に面した側の開口を通して内部の鉄骨が見えている。根元部分のコンクリートの高さが遥かに高くなっているのが見える。(1979年は子供でも登れる高さまでしかなかった。)StreetViewも過去の画像が参照できるようになってきたので同じ場所の変遷がわかり直近では波板の壁が増設され開口が小さくなっている。

https://maps.app.goo.gl/gZgU3zuYunCKcKAh9


別角度から見た旧待合所の屋根。道路を挟んで真向かいには三厩漁協の建物がある。


青森県漁連のサイトに海側からこの屋根を写した画像(©青森県漁連)があった。

https://www.amgyoren.or.jp/kennai-gyokyou/%E4%B8%89%E5%8E%A9%E6%BC%81%E6%A5%AD%E5%8D%94%E5%90%8C%E7%B5%84%E5%90%88/


道の合流場所に陸側に向けて立っている案内板。東日本フェリーが存在していたことを示すおそらく唯一の痕跡。(防舷材などが残っているようなので唯一でもないか...)右折して乗り場へ向かえという看板らしい。航路が廃止されて27年経った今も空き地に立ったままである。1979年にフェリーの出航を待っていた場所はこの矢印とは逆に左側に少し進んだ場所にある。1975年の空中写真によると当時この看板の場所は海であり、後年埋め立てによってできた土地や道路、南東に移設した新しい船着き場に合わせて港が再構成されたときにこの看板が新設されたのではないかと思う。

https://maps.app.goo.gl/33rq4VBd8NXBLKDa6

で下のStreetViewが開く(下の画像の撮影日は2023年6月)


【おまけ】

東日本フェリーさんには翌1980年に北海道を走った帰り、苫小牧→仙台の便でお世話になった。Wiki「東日本フェリー」によると中長距離航路化に対応するため新東日本フェリー発足後、同社運営航路の愛称を仙台七夕祭りや北海道・航海が星に縁が深いことから「スターライン」、東日本フェリー航路の愛称を7つの航路数から「レインボーライン」としたとのこと。自分が乗船したのは初代びるご。これに乗った際は日勝峠越えの疲れが抜けない中必死で走り、乗船手続き締め切り30分後に滑り込んで乗船という慌ただしい状況だったし、雨が降っていて紙テープでの見送りがあった記憶はないが、放浪詩人の岡本おさみが実体験を元に作詞した吉田拓郎の名曲「落陽」の歌詞に「苫小牧発仙台行きフェリー」出向の際、旅先で知り合ったじいさんが紙テープを拾いつつ見送ってくれたという場面が出てくる。

Wiki「落陽 (吉田拓郎の曲)」によるとこの曲は1973年11月26・27日に中野サンプラザで行われた「吉田拓郎リサイタル」で初披露されたとある。不思議なのは東日本フェリーが苫小牧仙台間の航路を開設したのは歌のお披露目よりも少し後の1973年の12月16日なので博打好きのじいさんに見送りされたのが実体験だとすると辻褄が合わなくなる。放浪の中で知り合い、互いに心を通わせたあのじいさんとのつながりは本当のことだったに違いないと思うが、航路開設は周知の情報なのでこれに絡めた歌詞にしようという岡本おさみの創作も入っていたのか?どうなのか?

苫小牧の新聞記事によれば2000年4月から東日本フェリーの苫小牧仙台航路は休止とある。また東日本フェリーという会社自体も今では存在しない。現在太平洋フェリーが苫小牧と仙台(及び名古屋)を結ぶ航路を運用しているが会社沿革をみると1970年名古屋に太平洋沿海フェリー株式会社を設立、翌1971年名古屋~仙台~苫小牧間の一般旅客定期航路事業免許取得、1973年北海道航路(名古屋~仙台~苫小牧)の開設とある。?新東日本フェリーと同じ年である。別の会社が並行して開設したのかそれとも事業を引き継いだのか?そこでWiki「太平洋フェリー」をみると公式サイトよりも詳しい記述があり謎が解けた。太平洋フェリーによる航路開設は1973年の4月で新東日本フェリーのスターラインよりも早く、岡本おさみがこれに乗った体験ののち作詞したことは時系列的に十分納得できる。はぁ~スッキリした。でも自分が乗った東日本フェリーの苫小牧発仙台行の「びるご」ではなかったことが確実となってちょっと残念ではある。


1979年旅程の続き


東日本フェリーで福島町
上の国町[泊]
江差町
北桧山町
北住吉駅[泊]
花石駅(瀬棚線唯一の有人駅で駅舎に招かれてお茶菓子をいただいた)


美利河駅 花石駅と同じ図面で建てられた感じ





から美利河別林道をさかのぼり美利河温泉(廃墟化していたが入湯できた)


美利河温泉1979年
林道終点から徒歩ルートで到着。左手樹木の向こうが温泉。後方が宿だったのかも。

美利河温泉1979年
屋根が崩れて日がさしていた

美利河温泉1979年
湯加減は良好。ただしアブの攻撃あり。

美利河温泉1979年
奥にある宿?の側から浴場の建物を振り返る。雪の重さに耐えられず崩壊したか。


茶屋川駅
静狩峠
礼文華峠付近で[泊]
洞爺湖
留寿都村橇負山山頂[泊]
神恵内村 当丸峠
積丹神威岬
ニッカウイスキー余市工場
小樽駅[泊]
日本海フェリー 小樽→舞鶴
舞鶴→箕面

大量の写真があるので中身を充実させたいがいかんせんフィルム時代。スキャンの手間が大変でなかなか着手できないでいる。できればこのメモに追記していきたい。


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